2009年までの研究会

第一回 2008年3月24日開催

■研究会発足にあたっての主旨説明 (津金澤聡廣)
■報告「1937年1938年の『広告界』 -戦時期広告制作者の戦時宣伝への意識」(竹内幸絵担当)

戦時期、先細る商業広告から戦時宣伝へと目的をすり替えていった広告制作者たち。戦前唯一の広告業界誌であった雑誌『広告界』を手がかりに、彼らの転身の実態解明を試みた。同誌には1938 年夏以降、商業広告の代替として「指導美術」「目的美術」「思想ポスター」「発言美術」「プロパガンディスト」といった新語がちりばめられていく。複数の 制作者がそこで「戦時宣伝は、戦後商業が拡大期となった際の広告の準備として格好の題材である」という共通した意識の下に、自らの役割の転換を標榜してい く。そこでは萌芽期にあった写真を使用した広告の有効性も強く表明されていた。これらは戦時宣伝と写真広告が一体となって拡大する布石となったとも考えられる。


第二回 2008年5月27日開催

■報告「『アサヒグラフ海外版』の伝えた「日本」」 (井上祐子担当)

『アサヒグラフ海外版』を国家宣伝の対外メディアと位置づけ、同誌が何をテーマとして、日本をいかに表現し、伝えていたのか、その足跡を追った。満州事変後国 際社会で孤立していた日本の外務省は情報委員会を設置し、対外宣伝の積極化に転じるが、その指示の元で主にアメリカ大衆向けとして発刊されたのが『アサヒ グラフ海外版』であった。メディアとしての萌芽期にあった第二次世界大戦期の写真あるいはグラフ雑誌は、その特性をどのように生かし、あるいはそれらにど う制約されながら、対外宣伝に関わっていくのか。井上氏は『NIPPON』『LIFE』とも比較しながら同誌の特性を考察。対外向け戦時期グラフ雑誌とい うメディアに課せられていた課題をひもとき、それに対する実際のグラフ雑誌がとった対応、そこでの表現の意味を考察していく。


 

第三回 2008年7月31日開催

■報告「アジアにおける戦時プロパガンダに関する資料 ~フィリピンを中心に~」 (土屋礼子担当)

日 本に投下された連合軍制作の戦時宣伝ビラを調査している土屋氏がアメリカ公文書館で発見した、日本軍が占領下のフィリピンで制作していた戦時宣伝物につい て発表。絵本、雑誌、ポスター、ビラといった多義にわたる媒体を使って、日本軍が植民地住民に対してどのように「共栄圏」思想の拡大を図ろうとしていたの か、いかにして白人の人種的偏見を糾弾し日本軍の到来がいかに独立のチャンスであると広めようとしていたのかなどを検討した。資料には当時フィリピンでこ れらの媒体が掲示されている様子を収めた写真も含まれている。また、発表時スライドを見た参加メンバーの指摘で、雑誌『NIPPON』から写真を引用した ポスターの存在も確認できた。


 

第四回 2008年9月26日開催

■報告「化粧品業界にとっての戦時下婦人雑誌」 (石田あゆう担当)

戦時下で婦人雑誌とそこに掲載された広告は、いつまでメディアでありえたのかだろうか。この問いかけの元、婦人雑誌『主婦の友』と『婦人倶楽部』における戦時下の化粧品広告の変遷を調査。業界誌『小間物化粧年間』(S9-17 年)上の記録も参照しながら実態に迫った。戦時期の化粧品広告は、美しさを追求するという本来の化粧品の目的ではなく、健康的な女性像、あるいは、日本的 な女性像をアピールし、化粧品の社会的意義をPRするという手法へと切り替えを計っていった。石田氏は、そしてそうした戦略によって、化粧品広告が当局か らの制約をうけることなしに、戦時期も一定時期まで拡大を続けていった事実を立証していく。あわせて、婦人雑誌における戦時期の広告が、戦時下の女性の役 割を喧伝するという固有の役割をも担っていた事実を考察した。


 

第五回 2008年12月13日開催

■ 展覧「大阪市立近代美術館準備室所蔵 萬年社コレクションのうち「引札」約100点の展覧および、主任学芸員菅谷富夫氏にコレクションについてのお話を伺う
■報告 「大阪の引札:正月用引札という広告実践」 (熊倉一紗担当)

1999 年倒産した大阪の老舗広告代理店の所蔵品を継承した大阪市立近代美術館準備室と同研究会との共同で、萬年社コレクションのうち「引札」約100点の展覧を 実施。同時に、「引札」という江戸期に誕生した日本固有の宣伝媒体が、明治期に近代的なマーケティング手法によって全国に流通していた実態に関して熊倉氏 が報告。大阪の2つの大きな印刷業者は引札の図版部分のみを印刷し、これを地方の印刷業者に見本帳として配布。地方業者はこの見本帳で地元の商店から広告 印刷を受注し、地方ではそれぞれの商店の宣伝文字部分が印刷された。この流通システムを構築することで「引札」は、全国に拡大していったのである。早稲田 大学教授山本武利氏も参加。


 

第六回 2009年1月7日開催

■報告「広告制作と<書く>こと:資料体としての今泉武治」 (加島卓担当)

『FRONT』 を発行した東方社、報道技術研究会の双方に所属した広告制作者、今泉武治の数多くの言説を手がかりに、当時の呼称で言うところの「報道技術者」、戦後は花 形となったアート・ディレクターという職域の萌芽期を戦時期に見出そうとする試み。芸術家の副業ではない広告制作者という新しい職域を自認する人々は、戦 時中は国家的使命を担ったが、戦後は一転してアメリカ流のディレクターという呼称で活躍していく。この一見180度の変節にも見える今泉らの活動の一貫性を捉えることで、広告制作者の今日的意義を探る。


 

第七回 2009年4月13日開催

■報告「日本のプロパガンダ・ポスター」 (田島奈都子担当)

積極的な公開が戦後避けられたことや、物資不足からあまり多くは制作されていないと誤解されてきた、戦時期日本のポスターについて、初めて総合的に調査しそ の全容を明らかにしようとする試み。この時期のポスターは、実際は陸軍海軍記念日や各種戦勝記念日、戦時国債発行などの際にかなり数多く制作されており、 そこには多くの著名画家などが参画している。また、第一次世界大戦時に制作された欧米ポスターの影響も色濃い。これらの制作実態の発掘とともに、描かれた 多様な文物から、戦時期の国内情勢や表現の変遷をよみとくことをこころみる。


 

第八回 2009年7月24日開催

■ 報告「広報・広告の公共性:広報史・広告史の再構築に向けて」 (難波功士担当)

「広告というよりも「広報」と考える事で、「総力戦体制」から戦後への脈絡が見えてくるのではないか。」このような命題設定に基づき、戦前満鉄から現代までに 至る「広報・広告」の関係性の変遷を読み解くこころみ。戦前満鉄に存在した「弘報班」は、『宣撫月報』の記載によれば、広告・宣伝・プロパガンダ・映画・ 観光までを含んだ非常に広範囲を射程とし活動していた。さらに満州国で実現したラジオ放送広告には「間接広告」と呼ばれた広告があり、これは戦後注目され たパブリックリレーションズ概念の先取りであった。戦後日本のラジオ広告放送には満鉄人脈が多く関係しており、これら満鉄由来の「弘報」や「間接広告」の 概念を引き継いだスタートが切られたと考えられる。難波氏は、さらにその後、パブリックリレーションズ概念が、本来の公共性という旗印を次第に失い、再度 「宣伝」へと近づいていった課程にも言及し、広報と広告の錯綜する関係を示唆した。


 

第九回 2009年9月14日開催

■ ゲスト報告 川戸和英氏(大同大学情報学部教授) 「萬年社・十年目の再考」 

本研究会の分科会「旧萬年社所蔵資料による大阪の戦後広告史の基礎研究」(下記4.参照)にあわせ、旧萬年社の社史・事業を振り返るにあたって、ゲスト報告を依頼。川戸氏からは、同社の戦前の栄光から戦後の事業展開までを俯瞰したうえで、大阪を地場とする広告代理店の企業経営・組織・広告業界全体への問題提起をいただいた。


 

第十回 2009年11月28日開催

■関西広告史に関するシンポジウム 萬年社コレクション調査研究プロジェクト報告会

大阪市立近代美術館建設準備室、大阪市立大学文学研究科および本研究会の共催にて、進行中の研究調査「旧萬年社所蔵資料による大阪の戦後広告史の基礎研究」の経過報告会をシンポジウム形式で開催。マスコミ、東京からの研究者、萬年者創業者親族、萬年社元社員など。参加者約60名にて、旧蔵資料の今後のありかたについて活発な意見交換が成された。