私に津金澤聰廣先生と年代の近い兄がいた。
兄が20年前に亡くなったときは寂しかった。父がシベリヤで抑留死したとき、私は5歳だったが、その後の人生の節々で指針やアドバイスを与えてくれたので、彼の私への言動は今でも温かく思いだされる。
津金澤先生に出あった最初は日本新聞学会の場であったと思う。私が東大新聞研究所の助手になり、学会担当としての職務をこなさねばならなかった頃である。大会が関学となり、主催校の事務局責任者となられた。ペイペイの助手の立場を理解して、精神的な負担がかからないような心配りをしてもらった。関学前か仁川の駅の近くの旅館で泊まったとき、学会の裏事情を話してくれた。そのおかげで任務を無事終えることができた。
新聞研究所助手は5年で期限切れとなるので、退職後の関西学院大学への就職をお願いしたところ、できるだけ配慮するとの温かいことばをもらった。東大の先生の世話にならずに離れたいと念願していたので、ありがたかった。
まだお若かったが、スムースにことを進めていただいた。ある東大教授に関学への就職決定を通知したら、自分が裏で別の教授に推薦したので、それがあなたの進路を決めたといわれた。後に就職してから、津金澤先生の全面なバックで就職できたことが確認できた。
なるべく授業の負担を少なくする要領、ボス教授のクセなどへの対処の仕方も正しく教わった。できるだけ関学アカデミーを有意義に送れるような配慮のことばである。そのことばには兄が青少年期にくれた人生のアドバイスと通底する心温かいものがあった。
その私が兄を裏切るような行為を突如として行った。3年目の初夏に一緒に高野山に参拝した。その南海電車の中で「埼玉大学から誘いがあり、転任したい」と伝えた。こちらからお願いしたその職場を3年そこそこで去ることは身勝手きわまりないことを承知した上での告知である。「山本さんはいつか変わると思っていたので、やむをえない。あなたのためにもよいことだ」との答えである。嫌味のことばは先生からも同僚からも投げかけられなかったのは、先生の人格と関学の寛大さであると思っている。
先生との共同研究や執筆活動は関学以来晩年まで続いた。関学時代からの朝日新聞関係書からつい最近の万博資料集の刊行まで共編著や座談会は十指にあまる。先生は共著では私の名前を先に出すよう図られた。この長い期間で編集上、叙述上での対立や口論がなかったのは、偏屈な世間知らずの弟を世にスムースに送らせるための温情があったからだと思う。時折あったり、電話でしゃべったりして、気分を晴らせる兄がこの世にいなくなったのはさみしい。しかしわが人生もそんなに長くはないので、がまんしてすごすことにしよう。
(2022年6月18日)